歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~松陰先生編番外コラム4本

note版「歴史・人物伝~松陰先生編」の番外コラムを一括掲載します。

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佐久間象山門下のスゴイ人材たち

前回(第4回)の松陰先生編で、吉田松陰の師である佐久間象山について触れました。当時最高の知識人だった象山の元には、たくさんの優秀な人物が教えを請いに集まっていたのです。

主な人物では、勝海舟吉田松陰小林虎三郎宮部鼎蔵河井継之助坂本龍馬、橋本佐内、山本覚馬真木和泉・・・。名前を挙げるだけでもそうそうたる面々で、まるで幕末のオールスター戦のようです(笑)

また、当時の江戸には、桂小五郎木戸孝允)や西郷隆盛もいました。桂は吉田松陰と同郷であり、西郷も橋本佐内とは懇意でしたので、「他の人物との交流があったかもしれない」と思うと、ワクワクします。

勝は幕臣として徳川家を守るために最後まで尽力しました。河井と小林は長岡藩士で後に新政府軍と激闘を繰り広げます。山本は会津藩士で、妹の八重は会津戦争で戦っています。

松陰と橋本は幕政改革を訴えながら安政の大獄で処刑されます。宮部や真木は幕府を倒すという志を持った人物でした。倒幕の原動力である薩長同盟には桂と西郷がかかわり、坂本が両者を結び付けました。

松陰の話を書く上で、改めて調べてみると、象山門下はスゴイ人材の宝庫だったことが分かりました。最後に歴史好きの欲深き夢を一つ。「象山門下をドラマ化し、主役級が居並ぶ壮大な人物群像劇を見たい」。

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ドラマ「蒼天の夢」のこと

歴史・人物伝~松陰先生編の番外コラムとして、2000年にNHKで放送されたドラマ「蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦」を紹介します。

このドラマは、司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」を原作としており、吉田松陰とその弟子の高杉晋作の生き様を描きました。ドラマの基軸になっているのが松下村塾と松陰の家族です。

松陰役は歌舞伎の中村芝翫(当時橋之助)さん、晋作役は能楽師野村萬斎さんが演じ、最初は反発していた晋作が徐々に松陰に心酔し、やがて松陰の志を継いで維新回天を成し遂げていくというストーリーです。

ドラマで印象に残ったのは、松陰が「雲がかかっていても、その上には常に青空が広がっている」と語るシーンです。青空はすなわち「松陰の揺るぎない信念」で、それは不変だということを言いたかったのでしょう。

その「揺るぎない信念」こそが、松下村塾に多くの人材を呼び、育てていく原動力になりました。一方で、「揺るぎない信念」ゆえに幕府にも本音で相対し、その結果処刑されてしまうのです。

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ひとり旅で訪れた松下村塾のこと

松下村塾のある山口県萩市には、これまでに2回ひとり旅で訪れています。幕末の歴史ファンにとって、街全体が見どころばかりという萩は、何度でも足を運びたい旅先の一つです。

初めて訪れたのは1992年11月でした。高杉晋作久坂玄瑞らが学び、歴史にその名を残す松下村塾が、当時そのままの建物として残っていたことに深い感動を覚えました。

当時書いた旅のエッセイに「この旅行のあと、さらに松陰について学んだ私なので、次にここに来るときは、もう一段違った感慨を持つに違いない」と書き記していました。ただ、その機会はなかなか訪れません(苦笑)

ようやく2回目の来訪となったのが2009年10月、実に17年ぶりでした。その時のエッセイには「新鮮な感動というのは薄れる。しかし、何度見ても松下村塾が素晴らしいことには変わりはない」と書いています。

松陰の歴史をろう人形で振り返る「吉田松陰歴史館」も2度目の見学となりました。初来訪以降、幕末史の知識を蓄えてきた私は、すべての再現場面を思い描くことができたのです。

ちょうどその時、遺墨などを収蔵展示する「松陰神社宝物殿至誠館」が完成間近でした。一足違いで見学できず、「ここは絶対見に来なければならない」と誓い、松下村塾を後にした覚えがあります。

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世田谷の松陰神社をお参りしました

東京23区内にあって、ローカル電車の雰囲気たっぷりの東急世田谷線に、松陰神社前という駅があります。駅から商店街を5分ほど歩くと、吉田松陰を祀る松陰神社に着きます。

松陰神社一帯は、毛利家藩主の別邸があった場所でしたが、明治15年に松陰門下によって神社が建立されました。以後、御祭神の吉田松陰にちなんで、学問の神様として多くの崇敬を集めています。

境内には、松陰はじめ安政の大獄の投獄者のほか、弟子であり同志だった野村靖の墓があります。また、松下村塾のレプリカも建てられており、萩市に行かなくても、その雰囲気が感じられます。

私は、大河ドラマ「花燃ゆ」が放送された2015年9月に参拝させていただきました。神社独特の神々しさに加え、幕末の革命に命を捧げてきた人々の熱い思いが伝わってくるような気がしました。

商店街に、吉田松陰を語るコミュニティースペース「松下村塾学び館」があり、帰りに立ち寄ってみました。松陰に関する書物など、コアかつレアなグッズが置かれており、興味深く見せていただきました。

店番をしていた若者と話をしたら、彼は私と同郷のうえ、高校の後輩だったことにお互いビックリ(笑) これも、松陰先生が導いて下さった縁だと思っています。

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note版「歴史・人物伝~松陰先生編」のマガジンで本編をご覧になれます

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歴史・人物伝~松陰先生編⑬~⑱「吉田松陰とその学び、教えとは」

幕末の長州藩で多くの人材を育てた吉田松陰。松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。松陰の「学び」や「教え」とは、どんなものだったのでしょうか?

note版「思い入れ歴史・人物伝」~松陰先生編の⑬~⑱を一括掲載しました。

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松陰の教えを受けた明治の元勲

久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿の「松門の三傑」を筆頭に、吉田松陰に学びを得た人物はたくさんいます。幕末に散った松陰や三傑の志を継ぎ、明治の新時代に活躍した人物を見てみましょう。

まずは伊藤博文です。伊藤は百姓の子に生まれ、足軽の家に養子に入って武士のはしくれとなりました。松下村塾で最も身分が低かったとされますが、それでも松陰から様々な薫陶を受けています。

松下村塾を通して久坂、高杉だけでなく、木戸孝允とも知己を得て、明治新政府では木戸と共に長州藩を代表する政治家となります。そして、初代内閣総理大臣になったのです。

山県有朋は、久坂の推薦を得て松下村塾に入塾しました。その1か月後に松陰は捕らわれの身となったため、山県が教えを受けたのはわずかな期間でしたが、山県は終生「松陰門下」を誇りに思っていたそうです。

山県は、高杉が創設した奇兵隊を率いて戊辰戦争を戦い、上司にあたる大村益次郎が暗殺された後は、大村の後継者として軍制改革をしました。内閣総理大臣も歴任し、大正時代まで権勢を振るいました。

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松陰の教えと肖像画を残した門下生

松下村塾の門下生で、伊藤博文山県有朋ほど出世しませんでしたが、明治新政府で活躍した人物に品川弥二郎がいます。入塾当時は15歳という多感な少年だった品川は、吉田松陰にかわいがられたそうです。

ただし、松陰の教えは厳しかったといいます。獄中から弥二郎に宛てた手紙には、「死生の悟りが開けないと言うのは愚かなことだ」などと痛切な言葉をぶつけています。

弥二郎は松陰の遺志を継いで、京都に「尊攘堂」を創設しました。ここには松陰の遺墨など資料がたくさん収蔵されています。弥二郎は、松陰の教えを後世に引き継ぐという役割を見事に果たしたのです。

また、松陰の初期の門下生に松浦松洞という人がいました。松洞は、松陰の思想である尊王攘夷に感化されて活動しますが、藩重臣長井雅楽暗殺計画を企ててながら挫折し、その責任をとって自刃します。

松洞は画家でもあり、松陰が安政の大獄で江戸に護送される直前、師匠の姿を肖像画に描きました。その凛(りん)とした姿は、吉田松陰の人物像を語る上で欠かせない絵となったのです。

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松陰の同志であり続けた入江九一と野村靖

松下村塾の門下生で忘れてはならない二人、入江九一と野村靖を紹介します。

松下村塾で教えていたとはいえ、吉田松陰は指導者だけの道を進んでいたわけではありません。詳しくは次回触れたいと思いますが、松陰は倒幕を最終目標として、老中の暗殺計画を企てるのです。

あまりにも無謀な計画に、久坂玄瑞高杉晋作ら大部分の弟子たちが反対しますが、入江九一と野村靖の兄弟だけは計画に賛同しました。松陰は大いに喜び、「本当の同志は君たちだけだ」とまで言っています。

九一と靖は、足軽だった入江家に生まれ、九一が家督を相続し、靖は親戚の野村家を継承しました。二人そろって松下村塾に入塾し、兄の九一は久坂、高杉、吉田稔麿と並ぶ「四天王」に名を連ねています。

九一は、安政の大獄で処刑された松陰の意思を継ぎ、老中暗殺計画を実行しようとして牢獄に入れられます。その後、久坂らとともに禁門の変に出兵しますが、戦いの最中に戦死してしまうのです。

弟の靖も、兄と共に松陰の意思を継ごうとして牢獄に入れられますが、後に許されて長州藩の一員として倒幕に尽力。明治政府では内務大臣や逓信大臣を務めました。

亡き同志・金子重輔と重ね合わせて

松陰は、自分の計画に賛同してくれた九一と靖を「同志」と呼んでいました。さらに靖に宛てた手紙に「金子重之助(重輔)は死んでいなかった」と喜びを語っているいるのです。

ここで改めて金子重輔について紹介します。重輔は、松陰と共にペリー来航に合わせて密航を企て、その罪で捕らえられて獄死しました。松陰にとって重輔は一番弟子であり、同時に「同志」だったのです。

松陰に教えを請い、学んだ人物はたくさんいますが、松陰は「自分と志を同じくする人物」を探していたのかもしれません。計画に賛同した九一と靖を亡き同志の重輔に重ね合わせた気持ちも、よく分かります。

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江戸に送られ、刑場の露と消える

吉田松陰は、松下村塾で多くの人物を教えてきましたが、尊王攘夷の志士であることも忘れてはいません。幕府が開国へと進んでいく現状が、どうにも我慢できなくなるのです。

幕府を変えるために松陰が選んだ方法は、時の老中・間部詮勝に攘夷を直接訴えかけ、聞き入れなければ殺害するという過激な計画でした。しかも、その計画を長州藩として実行しようと考えたのです。

松陰は、長州藩に武器弾薬の調達を願い出ましたが、藩主はもちろん、藩の重臣たちは驚き、彼を野山獄に収監します。獄中でも計画実行を企てる松陰に、久坂玄瑞高杉晋作ら弟子たちも離れていってしまいます。

やがて、過激な思想の松陰の存在が幕府に知られ、藩に身柄を江戸に送るよう命じられます。井伊直弼大老が、後に「安政の大獄」と呼ばれる徹底的な弾圧行っており、松陰も覚悟の上で江戸に向かったと思われます。

取り調べで松陰は、計画の全てを明らかにしました。このことが罪状を重くし、死罪となるのです。1859年10月、吉田松陰は30歳という若さで刑場の露と消えてしまいました。

辞世「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

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「死して不朽」の人生だったのか?

吉田松陰は、かつて弟子の高杉晋作に「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」と教えました。安政の大獄で死罪が決まり、死が現実となった松陰の心境は教えの通りだったのでしょうか?

大革命を見通した先見の明

処刑直前の松陰は「思い残すことは何もない」と言っています。自身の「思い」は、弟子や関係する人々に伝えたと思っていたのでしょう。後は、彼らがその「思い」をどう生かしてくれるかだけです。

松陰の唱えた「草莽崛起(そうもうくっき)」には、「幕府や藩、武士といった支配階級は頼りにならない。在野の人々が立ち上がり、新しい世を作っていくべきだ」との思いが込められていました。

幕末に活躍した長州藩久坂玄瑞伊藤博文薩摩藩西郷隆盛大久保利通土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎といった人々は、すべて「草莽」の出身です。代表的なのが、長州藩主力部隊となった「奇兵隊」でした。

明治維新は、支配階級の転換という日本史上屈指の革命でした。「草莽」すなわち在野の人々が立ち上がったからこそ、新しい時代が築けたのです。松陰は、それを見通していたのかもしれません。

親思ふ 心にまさる 親ごころ

松陰が、家族宛てに出した手紙に次のような句が書かれていました。

親思ふ 心にまさる 親ごころ けふの音ずれ 何ときくらん

この手紙は、死罪を言い渡された松陰の「遺書」です。後事のことだけでなく、両親に対する先立つ不孝へのおわび、家族への感謝が綴られ、松陰の深い愛情が込められています。

句は「子供が親を思う心より、はるかに大きい親が子を思う心。私が死罪となったことを聞き、さぞやお悲しみになっていることでしょう」との意味が込められ、詠んでいて胸が熱くなります。

私は「松陰は心残りだったのだろう」と思っています。決して「死して不朽」ではなく、最後まで「生きて大業」を目指していたのだろうと・・・。松陰の無念の気持ちが伝わってくるような気がします。

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松陰の遺言書「留魂録」を託し、託されて

吉田松陰が、数多い弟子の中でも「同志」と認めていた人物は、入江九一と野村靖の兄弟だけでした。明治になって、野村のもとに一人の元囚人が訪ねてきました。かつて、松陰と同じ江戸の獄舎にいた沼崎吉五郎です。

沼崎が携えていたのは、松陰が処刑直前に書いた「留魂録」でした。松陰は留魂録を2冊書き、1冊は長州に送り、もう1冊を沼崎に預けていたのです。当時の野村の感慨ぶりは想像に難くありません。

留魂録」は、「身はたとひ・・・」で始まる句が冒頭で詠まれ、松陰が弟子や長州藩の人々に向けた遺言書です。取り調べの様子や獄中で出会った人のことなどを中心に綴っています。

その中で唯一、名前を挙げて呼びかけていた人物がいます。文中で「子遠」と書かれている入江九一です。

子遠もしよく同志と謀り、内外志をかなへ、このことをしてすこしく端緒あらしめば、吾れの志とするところもまた荒せずといふべし。

これは、かねてから入江と話し合っていた「尊攘堂」の建設について、「同志と相談し、実現に向けて努力してほしい。そうすれば自分の志も遂げられる」と書いています。

松陰は、沼崎に留魂録を預ける際、入江と野村についても話していただろうと思われます。想像の域を超えませんが、沼崎は「松陰先生の遺言書を託すのは、野村靖をおいて他にはない」と考えたのではないでしょうか。

吉田松陰の「留魂録」は、完全な形で山口県萩市松陰神社に収蔵されています。

松陰先生の教えは、現代にもしっかりと受け継がれているのです。

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歴史・人物伝~松陰先生編①~⑦の一括掲載です

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歴史・人物伝~松陰先生編⑧~⑫の一括掲載です

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歴史・人物伝~松陰先生編⑧~⑫「吉田松陰とその学び、教えとは」

幕末の長州藩で多くの人材を育てた吉田松陰。松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。松陰の「学び」や「教え」とは、どんなものだったのでしょうか?

note版「思い入れ歴史・人物伝」~松陰先生編の⑧~⑫を一括掲載しました。

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逸材が学び、育った松下村塾

野山獄の収監から自宅幽閉となった吉田松陰は、獄中での講義経験を生かして、家族を相手に「孟子」の講義を始めます。これを聞きつけた近所の人も講義に加わるようになったのです。

松陰の評判は徐々に高まっていき、講義を受けたいと希望する若者が増えてきました。そこで、自宅の庭先にあった小屋を改装し、叔父の玉木文之進が創設した「松下村塾」を引き継いだのです。

松陰は、自らの思想である「尊王攘夷」を基本に、儒学兵学、史学などを講義し、時には塾生同士が議論することも督励しました。また、身分の隔たりなく誰でも入塾できたのも松下村塾の特徴でした。

塾生たちも日々の学びや議論を通して知見を蓄えます。その中から、久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿伊藤博文入江九一、野村和作、山県有朋ら幕末から明治にかけて活躍した逸材が育ったのです。

松陰自身も20代中頃と若かったので、塾生からすれば「先生」であるとともに「兄貴分」でもありました。松陰の側からしても「弟分」にあたる塾生たちに学ぶことは多かったのではないでしょうか。

次回からは、松下村塾で学んだ「松陰の教え子たち」より、代表的な人物を紹介していきます。併せて、松陰の盟友だった人たちにも触れていきます。

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防長第一の人物と評された久坂玄瑞

吉田松陰松下村塾)の教え子たちの一人目は久坂玄瑞を取り上げます。

藩医の子に生まれた玄瑞は、18歳の時に九州に遊学した際、宮部鼎蔵と出会います。宮部は、かつて松陰と東北視察に出向いた友人であり、「長州人なら松陰に学びなさい」と助言されたのです。

松下村塾に入塾した玄瑞は、松陰の教えを受けながら才能を開花させていきます。松陰は「防長第一の人物」とまで高く評価し、妹・文の結婚相手に推したほど、かわいがっていました。

松陰の思想である「尊王攘夷」を自身の思想として掲げ、松陰の死後は「尊王攘夷」の若きリーダーとして京都などで活動します。玄瑞の生涯で最も輝いていた時期ではないでしょうか。

長州藩は政変によって京から追放されましたが、主導権奪還のために京へ軍勢を進発させます。この先頭に立ったのが玄瑞だったのです。しかし、蛤御門の変長州藩は敗れ、玄瑞は自刃しました。

玄瑞は、土佐藩尊王攘夷のリーダーだった武市瑞山と交流しており、坂本龍馬中岡慎太郎とも面識がありました。龍馬や慎太郎にも「松陰の教え」を伝えていたのではないかと思います。

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奇兵隊を作り上げた男・高杉晋作

吉田松陰松下村塾)の教え子たちの二人目は高杉晋作を取り上げます。

松陰が「防長第一の人物」と評した久坂玄瑞の良きライバルであり、友人でもあった高杉晋作は、塾生の中でも身分の高い武家の出身です。入塾して間もない頃は、武士としてのプライドも高かったと思われます。

しかし、身分を超えて集まった優秀な塾生たちを見て、「人材は決して武士の中だけにいるわけではない」と考えるようになりました。それが、松陰の教えの一つ「草莽崛起(そうもうくっき)」につながるのです。

草莽崛起とは、在野の人々に変革を促すという意味です。晋作は、それを実践に移し、様々な身分の人たちが混在する軍事組織「奇兵隊」を創設します。やがて、倒幕に向かう長州藩の主力部隊に育っていくのです。

晋作が、松陰からの手紙で学んだ有名な言葉があります。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし

人の生死は「自分が何を成し遂げるか」によって決まる、と言いたかったのでしょう。若き晋作の心に刺さった言葉は、その後の生き方に影響を及ぼしていったのです。

 高杉晋作はたくさんのエピソードを残し、幕末でも極めて魅力的な人物です。個人的にも大好きな偉人なので、いずれ「晋作編」として紹介できればと思っています(笑)

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池田屋事件に巻き込まれた吉田稔麿

吉田松陰松下村塾)の教え子たちの三人目は吉田稔麿を取り上げます。

松下村塾の双璧と呼ばれた久坂玄瑞高杉晋作に匹敵する人物だったのが、吉田稔麿です。人によっては、久坂、高杉と並んで「松門の三傑」と称したり、入江九一を加えて「四天王」と呼んだりしています。

稔麿は、塾生の中では物静かなタイプだったといい、松陰から「識見に優れている」と評価されていました。しかし、幕末の動乱で活躍した久坂や高杉に比べ、稔麿は歴史に名を残せなかったのです。

長州藩が京都から追放された政変後も、密かに京都で活動を続けていた稔麿でしたが、ある歴史的な事件に巻き込まれてしまい、命を落としました。志士を取り締まっていた新選組が一躍名を上げた「池田屋事件」です。

事件では、多くの志士たちが殺されたり、捕縛されたりしました。その中に、松陰の友人だった宮部鼎蔵がおり、稔麿も松陰との縁で宮部とのつながりがあったのだと思われます。

最後に、漢学者の牧野謙次郎が明治になって語った「維新伝疑史話」に出てくる話を紹介します。

稔麿が、放たれた牛の絵を描き、その下に烏帽子、木刀、木の棒を添えた。山県有朋が何を意味するのか尋ねると、「高杉晋作は人にしばられることを好まない暴れ牛のようなもの。久坂玄瑞は雰囲気が立派なので烏帽子を被せれば絵になる。入江九一は斬れないが脅すことくらいはできる木刀だろう」と答えた。さらに山県が木の棒について尋ねると、「それは凡庸なお前だ」と言い放った。

実際に語ったかどうかは別として、常に冷静沈着に物事を見ていた吉田稔麿の人物像が分かるエピソードですね。

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松陰を支えた小田村伊之助と桂小五郎

今回は、吉田松陰松下村塾)の教え子たちからいったん離れ、松陰の盟友とも言える二人の人物について語ります。

義弟として支えた小田村伊之助

一人は、松陰の義弟にあたる小田村伊之助(楫取素彦)です。松陰の妹・寿と結婚して義弟となったのですが、年齢は伊之助が1歳年上。同世代の仲間と言ってもいいでしょう。

伊之助は儒学者の小田村家の養子に迎えられ、藩校の明倫館で学び、江戸にも留学しました。こうした経歴が松陰と似ており、学問を通して知己の間柄になったのだろうと思われます。

松陰が自宅幽閉された頃には、伊之助はすでに義弟となっており、松下村塾を開設する際には尽力したそうです。伊之助は身内として松下村塾の運営を助け、松陰の支援者として信頼を得ていました。

安政の大獄で江戸に送られた松陰が、処刑される前に獄中の仲間にあてた遺書には、久坂玄瑞ら教え子と共に伊之助の名が記されていたそうです。後事を託せる人物と見込んでいたことがうかがえます。

伊之助は明治以降、楫取素彦と名を改め、群馬県の県令として製糸業発展に尽力しました。また、寿の死去後にはその妹である文と再婚しています。

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明倫館時代の弟子・桂小五郎

もう一人は松陰より3歳年下の桂小五郎木戸孝允)です。小五郎は、若くして藩主・毛利敬親から褒賞を受けるなど俊英として注目されました。この点は松陰と似通った経歴の持ち主と言えます。

小五郎は松下村塾の塾生ではありませんが、松陰が藩校・明倫館の教授だった時に、松陰から兵学を教わっています。つまり、明倫館を通しての師弟関係だったのです。

松陰と小五郎は同じ時期、すなわちペリー来航の前後の頃、江戸に居ました。師弟関係のうえ、年齢も比較的近かったので、尊王攘夷など様々な国事の議論を交わしたと思われます。

そうした過程で、松陰は「桂小五郎は優れた人材である」と評価し、藩の上役に小五郎の登用を推挙したといいます。小五郎も、松陰の門人であるとの意識を終生持ち続けたようです。

桂小五郎長州藩のリーダーとして倒幕を果たし、木戸孝允と名を改めた明治維新初期の国家づくりに多大な功績を残しました。

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歴史・人物伝~松陰先生編①~⑦の一括掲載です

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歴史・人物伝~松陰先生編⑬~⑱の一括掲載です

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歴史・人物伝~松陰先生編①~⑦「吉田松陰とその学び、教えとは」

幕末の長州藩で多くの人材を育てた吉田松陰。松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。松陰の「学び」や「教え」とは、どんなものだったのでしょうか?

note版「思い入れ歴史・人物伝」~松陰先生編の①~⑦を一括掲載しました。

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吉田松陰が「先生」と呼ばれる理由は?

幕末から明治にかけて、長州藩山口県)出身者が大勢活躍しました。明治のリーダーだった伊藤博文山県有朋維新三傑の一人・木戸孝允桂小五郎)、そして幕末の英傑である高杉晋作久坂玄瑞

木戸を除く4人は松下村塾で学びました。その師こそが吉田松陰です。松下村塾は地方の小さな私塾に過ぎませんが、日本の歴史を変え、明治の日本社会を支えた人材が次々と巣立っていきました。

松陰の教えとは

吉田松陰は、地元の山口県萩市で今でも「松陰先生」と呼ばれ、多くの人たちの尊敬を集めています。木戸や伊藤、山県らをあまり「先生」と呼びませんが、なぜ松陰だけが「先生」なのでしょうか?

その理由は、松陰の教えにあるのではないかと私は推察します。一つは、単に知識や教養を得るだけの学問ではなく、その知識を実践に生かすことが大事という考え方です。

もう一つは、身分の分け隔てなく誰でも入塾を認めたという姿勢です。高杉のような上級武士の子もいれば、足軽など軽輩も多く、「学びに身分差別はない」というのが松陰の信条でした。

松陰は優れた指導者でしたが、同時に革命の志士でもありました。その激烈な生涯は、安政の大獄によりわずか30年で閉じたのです。松陰が残した教えは、高杉や久坂らに引き継がれ、維新へとつながっていきます。

吉田松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。その生涯をたどりながら、「松陰の学び」をキーワードに松陰先生編を書いていきたいと思います。

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幼き頃から学問に打ち込む

吉田松陰は、1830年に杉家の次男として生まれ、叔父の養子となって吉田家を継ぎました。吉田家は山鹿流兵学師範を務めており、それにふさわしい教育が求められたのです。

幼い松陰を教育したのは、父の末弟にあたる玉木文之進でした。文之進は松下村塾を開き、ここで松陰も学びます。叔父・甥の関係でしたが、文之進はたいへん厳しく松陰を教えたとされています。

妹・千代の回想によると、松陰は他の子供たちのように「遊び」をすることは全くなく、「机に向かうか、筆をとっている姿しか思い浮かばない」と振り返っています。大変な努力家だったことがうかがえます。

文之進の教育があってか、松陰の学才は藩主・毛利敬親の知るところとなり、11歳にして敬親の御前で講義を行いました。そして、20歳前後には藩校明倫館で兵学を教えるまでになったのです。

ちなみに、文之進が創設した松下村塾は彼の旧宅を使っており、その後松陰が引き継ぐ形となった松下村塾松陰神社境内、世界遺産に指定)とは少し離れた場所にあります。

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全国を歩き、自分の目・耳で学ぶ

20歳前後の若さで藩校・明倫館で兵学を教える身となった吉田松陰ですが、学ぶことを忘れたわけではありません。地元の萩に居るだけでは机上の学問になってしまうと考え、遊学の旅に出ます。

松陰は、南の九州熊本から江戸、そして北は津軽(青森)までくまなく歩きました。兵学師範の松陰にとって、海外列強からの海防が最大のテーマとなっており、現地を訪れることで自らの目や耳で確かめたかったのです。

私事ですが、以前に津軽半島突端の竜飛岬を訪れた際、「吉田松陰詩碑」を見学し、「こんなところまで来ていたのか」と驚いたことがありました。交通機関のなかった当時としては、大変な道のりだろうと推察されます。

松陰は、津軽海峡に外国船が往来していることを知り、現地を確かめながら具体的な海防策を考えたのだと思います。机上だけでなく、実践することの大切さを体験し、学んだのではないでしょうか。

さらに松陰は、自身の知見を深めるため、江戸で多くの人物と交流するのです。

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佐久間象山ら多くの逸材と交流

全国を視察して歩き、見聞を広げてきた吉田松陰は、江戸で砲術や兵学の勉強に励みます。松陰が学びの師に選んだのは、西洋砲術家であり、当時最高の知識人と言われていた佐久間象山です。

この頃、勝海舟(海舟の妹婿が象山)をはじめ、坂本龍馬、橋本佐内、河井継之助ら様々な立場で幕末に活躍した人材が、象山の元で学んでいました。つまり、全国から集まった逸材と松陰は交流していたのです。

その一人、熊本藩宮部鼎蔵とは意気投合し、二人で東北地方に視察の旅をしました。藩の許可が出る前に旅立ったため、松陰は脱藩の罪で国元に戻されますが、藩主によって許され、再び江戸遊学に出ます。

そして、江戸を震撼とさせる事態が起こります。1853年にアメリカのペリーが浦賀に艦隊を率いてやって来ました。江戸にいた松陰は、この事態に衝撃を覚えるとともに、ある決意を胸に秘めていくのです。

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外国に学ぼうとして密航を企てる

ペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来て、諸外国の脅威を目の当たりにした吉田松陰は、海防の重要性を再認識するとともに外国の優れた軍事力や文化に驚いたのです。

松陰は「外国を討つべし」という攘夷思想の持ち主でしたが、同時に「外国から学ぶべきことは多い」との考えも持っていました。そこで、一番弟子の金子重輔とともに外国留学の手立てを探ります。

翌年、ペリーが下田に再度来航したのをチャンスと思い、金子とともに旗艦に乗り込み、渡航を申し入れました。しかし、幕府との関係悪化を懸念したペリーは拒絶し、外国留学の夢は断たれたのです。

幕府に引き渡された松陰と金子は、密航の重罪人として投獄されます。死罪になる可能性もあったのですが、最終的には長州藩に護送され、国元での蟄居を申し付けられました。

もし松陰と金子が渡航を果たしていたならば、松陰が松下村塾を開くこともなく、優秀な人材も集まるべくもなく、あるいは長州藩の歴史が変わっていたかもしれません。まさに「歴史の大きな岐路」だったのです。

国元に送り返された松陰は、野山獄に収監されます。そして、金子重輔は病気が悪化し、獄中で亡くなってしまいます。松陰は、金子の死を深く悼み、「死を招いた原因は自分にある」と自身を攻め続けていたのです。

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獄中で教え、学び合う松陰や囚人たち

ペリーの来航を狙った渡航作戦に失敗し、密航の罪で国元に返された吉田松陰は野山獄に収監されます。そして、松陰の密航に付き従った一番弟子の金子重輔が亡くなってしまい、意気消沈してしまいました。

野山獄は監獄とはいえ、比較的自由がきき、家族との面会も可能だったようです。また囚人とはいっても、比較的身分の高い人たちが入っており、そうした人たちは様々な教養を身に着けていたのです。

藩主に講義をしたほどの松陰ですので、その講義を聞きたいと思う人がいても不思議ではありません。金子の死で落ち込んでいた松陰は勇気づけられ、やがて獄中で「孟子」の講義を始めます。

ここから、互いに教え、学び合う「獄中勉強会」に発展していきます。囚人だけでなく、看守までその輪に加わるほどでした。また、後に松下村塾の講師となった富永有燐とも出会っています。

その中に、唯一の女性だった高須久子がいました。久子は、若き才能のある松陰に興味を持ち、松陰もまた、自分が持っていない短歌や俳句の感性がある久子に尊敬の念を抱いていたと思われます。

松陰は約2年半で野山獄から出て、自宅幽閉処分に切り替えられるのです。

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仲が良かった松陰と、きょうだいたち

野山獄での収監から許された吉田松陰は、自宅の杉家で幽閉の日々をおくることになります。杉家は、父の杉常道、母の滝、兄の杉梅太郎(民治)のほか、複数の妹や弟たちが暮らしていました。

梅太郎は松陰の2歳年上で、兄弟の仲はとてもよかったそうです。幼い時から松陰を生涯励まし続け、明治になって官職を退いてから松下村塾を継承しました。晩年は松陰の思い出話を人に聞かせていたといいます。

千代は松陰の2歳年下の妹で児玉家に嫁ぎました。明治41年に雑誌のインタビューで兄・松陰について語っていますが、松陰の人柄や家族愛など、血気盛んな志士とは違った人物像を紹介したのです。

寿は小田村伊之助(楫取素彦)と結婚します。小田村は松陰とほぼ同世代の長州藩士で、松下村塾を開いたり、再度牢に入れられたりした時には、良き相談相手になったようです。

文は松下村塾の塾生だった久坂玄瑞と結婚します。久坂は若くして亡くなってしまいますが、その後も杉家とは縁が深く、明治になって寿の死去後、楫取と再婚するのです。

末弟である敏三郎は、生まれつき耳が聞こえなかったそうです。幽閉の身だった松陰は、家族相手に講義を行っていましたが、障害のある敏三郎を教えることは松陰自身も勉強になったのではないでしょうか。

自宅での教えは、家族から近所の人たちへと広がっていき、やがて叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を継ぐようになるのです。

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歴史・人物伝~松陰先生編⑧~⑫の一括掲載です

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歴史・人物伝~松陰先生編⑬~⑱の一括掲載です

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歴史・人物伝~関ケ原編番外コラム3本

note版「思い入れ歴史・人物伝~関ケ原編」の番外コラム3本を掲載いたします。

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大河ドラマ葵徳川三代」のこと

関ケ原の合戦をはじめ徳川幕府初期を描いた大河ドラマ葵徳川三代」について、番外コラムとして取り上げます。

葵徳川三代」とは

葵徳川三代」は、2000年に放送された大河ドラマです。関ケ原の合戦からちょうど400年目の節目にあたり、ジェームス三木さんが脚本を担当した本格的な歴史ドラマとして強く印象に残っています。

物語は、豊臣秀吉死去の直後に始まり、関ケ原の合戦、徳川幕府誕生、大坂冬・夏の陣、秀忠の治世、そして家光の将軍就任までと、家康、秀忠、家光の3代の将軍の時代を描いています。

主役である徳川家康役は津川雅彦さん、秀忠役は西田敏行さんが務め、敵役の位置づけとなる石田三成役は江守徹さんが演じていました。津川さんの家康は、まさに「はまり役」と思いました。

石田三成は、ドラマの作り方によっては卑劣な人物像をあてがわれることもありますが、「葵徳川三代」では、融通は利かないが、豊臣家の行く末だけを心配する実直な人物として描かれています。

ドラマの特徴は

このドラマで強く印象に残っているのは、放送第1回で関ケ原の合戦をダイジェストで紹介し、2回目以降で合戦に至るまでの過程を、それぞれの人物の動きを踏まえながらたどっていく、という構成です。

関ケ原の合戦シーンは、壮大なロケが行われたと聞いており、とても迫力がありました。もちろん、各武将たちの動きや思いも緻密に描かれ、第1回から私を含む視聴者をくぎ付けにしたのです。

ダイジェスト版を紹介するという構成は、ドラマでは欠かせない「先が読めない」という要素を取り払い、逆に「なぜ、この結果になったのか」を見る人に考えさせるように作られています。

セリフも、現代人の言葉ではなく、出来る限り当時の人の言い回しを使っていました。意味が分かりづらい部分も多少はありましたが、時代劇の重厚さが感じられ、私には耳馴染みがよかったです。

なお、オーケストラとピアノが競演するテーマ音楽も好きでした。

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関ケ原の合戦の布陣を考える

歴史・人物伝~関ケ原編を執筆中ですが、本日は私自身が「関ケ原の合戦の史跡」を旅行した時に感じたことを書きます。

関ケ原を歩いてみる

私が関ケ原に降り立ったのは2000年。今から20年前になります。当時、大河ドラマ葵徳川三代」が放送されており、関ケ原の合戦からは400年目の節目にあたっていました。

JR関ケ原駅から徒歩で各武将が布陣した史跡を巡りましたが、かなりコンパクトにまとまっている印象でした。裏を返せば、狭い範囲の中で壮絶な戦いが繰り広げられたということになります。

北西部の石田三成布陣の笹尾山は、関ケ原が一望できる場所にありました。案内図を見ると、家康方の東軍を、西軍が覆うように陣を張っていることが分かります。後方には毛利勢らが布陣した南宮山も見えます。

三成の盟友だった大谷吉継の陣は、関ケ原から西へ向かう狭い谷間だったことも分かりました。かつて不破の関があった交通の要衝であり、そこに最も信頼する吉継を配置した三成の意図がうかがえます。

西軍有利の布陣だったが・・・

現地で入手した陣形図(武将名は私が入力)は、地形や今の交通網が書かれており、旅行から帰ってきた後も随分参考になりました。

合戦の布陣について有名な話があります。明治時代に軍事顧問だったドイツの軍人が、布陣図を見て即座に「西軍の勝利」と言ったそうです。つまり、西軍有利の布陣だったことは明白でした。

ところが、史実では「東軍の勝利」となっています。家康は、どのようにして関ケ原の合戦で勝利を収めたのでしょうか?

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西軍勝利をシミュレーションしてみる

関ケ原の合戦は東軍の圧勝、西軍の大惨敗に終わりましたが、西軍が勝つとしたらどんなケースだったのかを考えてみました。

私がキーマンに挙げるのは、西軍の総大将で毛利家当主の毛利輝元です。輝元は、秀頼を守る名目で大坂城に詰めていたものの、家康らとの戦いにはあまり積極的ではなく、領地を守ることが最も重要と考えていました。

もし輝元が東へ向かって出陣し、関ケ原で布陣するか、少なくとも後詰として佐和山城石田三成の居城、彦根市)に入っていたら、合戦の様相は一変したと考えられます。

輝元が西軍の旗印になれば、吉川広家日和見というわけにはいかず、西軍として参戦を余儀なくされるでしょうし、毛利一族を継いだ小早川秀秋も東軍に寝返らなかったのではないでしょうか。

布陣だけ見れば、西軍が有利であることは一目瞭然で、輝元参陣で両軍が激突すれば、西軍に勝機があっただろうと思います。最悪の場合、家康が合戦で討ち死にすることもあり得ます。

もっとも輝元の出陣となれば、徳川家康も戦略を練り直し、関ケ原での合戦そのものがなかった可能性があります。その場合、歴史はどう変わっていったのか・・・そこまで深追いすることはやめておきましょう(笑)

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歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 

note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の⑮~⑳をブログで一括掲載します。

関ケ原の合戦に参陣した武将たちの銘々伝 

歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭はこちら

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徳川家の面目を保った井伊直政

ここからは、関ケ原の合戦当日にキーマンとなった人物を紹介していきます。

昔から合戦では、戦闘の火ぶたを切る先陣こそ名誉だとされ、いろいろな戦いで仲間同士の先陣争いが繰り広げられてきました。日本史上最大級の戦いである関ケ原の合戦も例外ではありません。

徳川軍は、家康と秀忠の二つに軍勢を分けていましたが、関ケ原の合戦に秀忠軍が間に合わず、豊臣家恩顧の大名が主力部隊にならざるを得ません。その家康軍に従軍していたのが徳川四天王井伊直政でした。

秀忠の同母弟・松平忠吉は、直政の娘婿で、関ケ原の合戦が初陣となります。直政は、忠吉に何としても軍功を立ててもらいたいと思うとともに、徳川家の面目を保とうと画策するのです。

常に東軍の先陣を切ってきた福島正則軍の間隙をぬい、忠吉と直政が率いる鉄砲隊が、西軍の宇喜多秀家軍に銃弾を撃ち込みます。これに宇喜多軍が応戦したことで、関ケ原の合戦が開戦されたのです。

深い霧の中での偶発的な出来事ではないかとも言われますが、私は直政の作戦だったと思います。家康は、先陣が忠吉と直政だと聞いて大いに喜び、同時に「面目が保たれた」と安堵したことでしょう。

井伊直政は合戦後の論功行賞で、三成の領地だった佐和山を所領とし、彦根に城を築きます。井伊家は「徳川譜代の先陣」として、大坂や西国大名に睨みを利かす役割を担うことになるのです。

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毛利家への思いが異なった二人の人物

西軍の総大将に担ぎ出された毛利輝元は、徳川家康と並ぶ五大老の一角であり、西国地方では押しも押されぬ大大名です。ただ、一枚岩だった徳川家とは違い、毛利家は一枚岩になれませんでした。

毛利家を二分したのは安国寺恵瓊吉川広家だったのです。

毛利家の天下を目指した恵瓊

石田三成は家康に対抗するため、輝元を味方に引き入れようと考えます。その橋渡し役となったのが安国寺恵瓊です。恵瓊は毛利家の外交僧として知られ、輝元や小早川隆景毛利元就の三男)の信頼が厚い人物でした。

三成が「秀頼や豊臣家を守るため」に決戦を挑んだのに対し、恵瓊の胸の内は「毛利家が天下に号令すること」を目指していたようです。ただ、「家康を倒す」という目的は一致していました。

三成らの要請を受けた恵瓊は、輝元を説き伏せて大坂城入りを決断させます。その後は、輝元の名代として出陣した秀元(輝元の養子)を後見し、西軍の主力部隊として各地を転戦するのです。

秀元ら毛利勢は、関ケ原の合戦で東軍の東側に位置する南宮山に布陣します。家康を挟撃する絶好の位置なのですが、恵瓊の思惑通りに事は運びませんでした。先陣に吉川広家がいたからです。

毛利家安堵を願った広家

吉川広家は、毛利元就の次男で吉川家を継いだ吉川元春の子で、毛利一門の重鎮です。小早川隆景死去後の毛利家の所領を巡って石田三成に反発心を持ったとされ、どちらかというと家康寄りの人物でした。

広家と恵瓊は馬が合わず、互いに嫌っていたとされます。輝元の大坂城入りにも最後まで反対し、恵瓊と激論を戦わせましたが、結局輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったのです。

「毛利家存亡の危機」と悟った広家は、西軍に従軍しながらも家康に味方することを決断します。黒田長政を通して「関ケ原では戦闘に加わらないので、毛利家の領土を安堵してほしい」と内通するのです。

そして関ケ原の合戦では、毛利家の先陣にいた広家が兵を動かさなかったことで、南宮山の毛利家などの軍勢は西軍から切り離されてしまいます。これが、西軍の大惨敗につながっていくのです。

 

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父譲りの調略で貢献した黒田長政

西軍の総大将だった毛利輝元は、毛利一族を一枚岩で束ねることができず、一族の重鎮・吉川広家の東軍内応という結果を招きました。その広家をはじめ、西軍諸侯の調略に奔走したのが黒田長政です。

長政の父親は、秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛(如水)です。本能寺の変直後の中国大返しをはじめ、九州の平定、北条氏の小田原城開城など、秀吉の天下統一を軍略や調略で支えてきた人物です。

長政は、加藤清正福島正則と親しい間柄だったこともあり、石田三成とは対立する立場となります。また、先妻を離縁して家康の養女を妻に迎えるなど、家康に接近して信頼を得るようになるのです。

関ケ原の合戦に先立ち、長政は「毛利一族が東軍に寝返らせるための調略」にかかります。吉川広家には毛利本家の領土安堵をちらつかせ、小早川秀秋には所領の大幅な加増を約束しました。

東軍大勝利の恩賞として、黒田家は筑前(福岡県)の大大名に出世します。その時、「子々孫々にお家騒動があっても取り潰しはしない」とのお墨付きをもらったとも言われています。

長政は、父の如水を深く尊敬しており、晩年には「父と自分が味方したから東軍が勝った」と豪語したとされます。一方で徳川家への忠節を子々孫々守り続け、福岡藩黒田家は明治維新まで命脈を保ったのです。

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合戦の勝敗を決めた小早川秀秋の寝返り

関ケ原の合戦は東軍西軍ともに相譲らず、数時間にわたって激しい戦いが繰り広げられています。その様子を松尾山から見ていたのが、西軍で1万5千の軍勢を率いていた小早川秀秋でした。

小早川家は、毛利元就の三男隆景が後を継いで毛利一族となりましたが、秀秋は毛利家の血筋ではありません。豊臣秀吉の妻・高台院の兄の子として生まれ、幼少時には秀吉の後継者候補にもなった人物です。

「秀秋を毛利輝元の養子に」との豊臣家からの要望に対し、隆景が逆に「ぜひ自分の養子に」と申し出ました。秀秋の器量を見極め、「毛利家の後継者にすれば、お家存続の危機がくる」と予見したからとも言われています。

小早川軍は、関ケ原で西軍の一員だったとはいえ、東西どちらに付くのか懐疑的に見られていました。結局は東軍に「寝返る」形で、西軍の大谷吉継軍に攻めかかり、西軍総崩れの要因を作ることになったのです。

秀秋は論功行賞で岡山の大大名に出世します。しかし、そのわずか2年後に21歳の若さで亡くなってしまい、小早川家は断絶しました。隆景の予見は不幸な形で当たってしまったのです。

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中央突破で武勇を示した島津義弘

戦国時代の九州で圧倒的な力を誇っていた島津氏。豊臣秀吉に屈服したものの、その武勇は全国に名をとどろかせていました。島津義弘は当主・義久の弟で、多くの戦いに出陣した猛将として知られています。

島津軍は、家康方が守る伏見城へ援軍に出向いたものの、留守居鳥居元忠が入城を拒否したため、西軍に参陣することになりました。関ケ原の合戦では、石田三成の南側に1500の軍勢で布陣します。

合戦が始まっても島津軍は積極的に交戦せず、三成の家臣が出陣を促しても「馬上での物言いは無礼」と追い返しました。結局、小早川秀秋らの裏切りで西軍は壊滅し、戦機を失ってしまったのです。

戦場に取り残された島津軍は「死中に活を求める」ため、東軍に向かって全軍が突撃し、強引な中央突破を試みます。甥の豊久ら多くの家臣が討ち死にする中で、義弘は辛うじて虎口を脱したのです。

家康は、島津征伐も持さないつもりでしたが、島津家の武力と老獪とも言える和平交渉に根負けし、本領安堵させました。その後の島津家は、徳川家と積極的に縁組みをするなど、親幕府の立場を貫き通したのです。

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論功行賞と処分の実権を握った徳川家康

徳川家康率いる東軍が圧勝し、石田三成ら連合軍の西軍が大惨敗した関ケ原の合戦。大坂城にいた西軍総大将の毛利輝元は抵抗することなく退去し、家康はすんなりと大坂城入りしたのです。

巧みな論功行賞ぶり

家康は、豊臣秀頼を立てながらも、諸大名に対する論功行賞と処分の実権を自らが握り、行使していきます。論功行賞では、まず徳川家の領地を大幅に拡大し、金山・銀山など利権の大きい場所を直轄地にしました。

続いて、一門への厚遇です。次男の結城秀康は越前(福井)に、四男の松平忠吉尾張(愛知)に、五男の武田信吉は水戸に加増配置します。娘婿の池田輝政には播磨(兵庫)、蒲生秀行には会津(福島)を与えます。

東軍の豊臣家恩顧の大名も、福島正則に広島、黒田長政筑前(福岡)、細川忠興豊前(福岡・大分)、山内一豊に土佐(高知)など大幅に加増します。ただし、江戸からは遠い地に領地を与えたのです。

家康譜代の家臣団も大名に取り立てられますが、最大でも井伊直政彦根(滋賀)18万石でした。ただし、幕府の政治を担う権利を与え、徳川家を頂点とする譜代大名の集団指導体制を確立させるのです。

徹底した処分を断行

一方、西軍に対しては厳しい処分を科しました。首謀者の石田三成は、小西行長安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で処刑され、いずれも所領は没収されました。遠島処分の宇喜多秀家も所領没収となったのです。

毛利輝元は、一族で東軍に付いた吉川広家の嘆願により、辛うじて長門(山口)のみ領土を安堵されます。上杉景勝会津から米沢へ、佐竹義宣常陸から出羽(秋田)へ、それぞれ減封されました。

また、長曾我部盛親(土佐)をはじめ、たくさんの大名が所領没収の改易処分となりました。盛親ら浪人となった武将の中には、後に豊臣家が蜂起した大坂冬・夏の陣に加わる者も出てきます。

豊臣秀頼は、当然処分の対象にはならなかったわけですが、豊臣家が諸大名に管理させていた領地を家康が再配分した結果、摂津・河内・和泉(大阪)のみの所領となってしまったのです。

まとめ

関ケ原の合戦は、関ケ原という特定の場所だけの戦いではなく、東北、北陸、九州などでも戦いが繰り広げられ、全国の大名たちが少なからずかかわっていました。

その結果、勝利者となった徳川家康は、全国の領地を差配する権利を得ることになったのです。合戦から3年後、家康は征夷大将軍に任官して江戸に幕府を開き、260年にわたる徳川幕府が始まります。

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歴史・人物伝~関ケ原編①~④、⑤~⑧はこちら

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歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 

note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の⑨~⑭をブログで一括掲載します。

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「豊臣家は自分が守る」福島正則

今回からは、関ケ原の合戦に参陣した武将たちの銘々伝を書いていきます。最初は福島正則ですが、その前に合戦に至るまでの経過について触れておきます。

関ケ原に集結する両軍

上杉討伐のため東へ向かった徳川家康と豊臣家恩顧の大名による東軍。その間隙をぬって、石田三成毛利輝元宇喜多秀家らの連合軍である西軍が決起しました。

東の美濃方面へ進む西軍に対し、家康は上杉包囲網を敷いたうえで、東軍を西へと反転させました。豊臣家恩顧の大名らの奮闘で、岐阜城を陥落させた東軍に対し、西軍は大垣城を拠点に対峙(たいじ)するのです。

9月14日に家康が大垣城近くの赤坂へ到着すると、西軍は全軍を関ケ原に移動して布陣します。これに合わせ、東軍も関ケ原への進軍を開始し、15日朝までには布陣を完了。間もなく開戦の火ぶたが切られます。

三成を憎んだ福島正則

福島正則は、上杉討伐か西への反転かを決める「小山評定」で、真っ先に発言して西軍との対決姿勢を明確にするなど、東軍に属する豊臣家恩顧の大名の中で最も影響力を発揮した武将です。

正則は「自分が最も豊臣家に近く、秀頼を守るのは自分をおいて他にない」との意識が強い人物です。戦場での働きが第一と思っている正則には、三成が奉行職として豊臣政権の中枢にいることが不満でした。

以前に加藤清正らと組んで、三成を襲撃するという事件を起こしています。この時、三成は奉行職を解かれ、蟄居(ちっきょ)させられましたが、そんな身でありながら軍事行動を起こした三成を許せなかったのでしょう。

正則が本気で敵視していたのは、西軍でも三成や小西行長ら少数だったかもしれません。ですが、根っからの武人である正則は「戦場で相対する者は全て倒さねばならない」と思ったに違いありません。

 

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「死一等を減ぜられた」宇喜多秀家

関ケ原の合戦で西軍の最大軍事力を持っていたのが、備前(岡山)の領主・宇喜多秀家です。この時秀家は28歳の若さでしたが、徳川家康毛利輝元上杉景勝らとともに五大老に列していました。

石田三成や三奉行の招請に応じ、輝元とともに大坂城入りした秀家は、大坂に詰めていた総大将の輝元に代わり、西軍の主力部隊として伊勢方面の攻略を行い、その後関ケ原の合戦に臨みます。

しかし、合戦で西軍は惨敗し宇喜多軍も壊滅。敗走した秀家は、島津氏にかくまわれていましたが、家康と島津氏が和睦したことで身柄を引き渡され、八丈島に遠島処分となります。

本来なら三成らと同じように死罪になるところですが、秀家の妻は前田利家の娘であり、秀吉の養女だった豪姫。家康が前田家や豊臣家に配慮した結果、秀家は「死一等を減ぜられた」のでした。

二度と本土の地を踏むことのない遠い八丈島で、秀家は約50年生き抜きます。過酷な環境だった半面、戦いや権力に振り回されずに穏やかな生涯をおくれたのではないでしょうか。

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ガラシャの悲劇を乗り越えて」細川忠興

関ケ原の合戦にまつわる悲劇的なエピソードとして有名な細川ガラシャの自害。正確に言うと「家臣により命を絶たれた」わけですが、この事件により、西軍は人質戦略の見直しを迫られることになりました。

ガラシャは、家康に従軍した細川忠興の妻で、諱(いみな)は「たま」と言い、明智光秀の娘として知られています。キリスト教に帰依してガラシャの名を授けられ、父光秀譲りの真正直でぶれない性格だったようです。

忠興の父は、光秀の盟友と言われた細川藤孝で、関ケ原の合戦当時は居城の田辺城(京都府舞鶴市)を守っていました。西軍が大坂から進攻を開始し、伏見城とともに攻撃の的にされた城でもあります。

大軍に攻められ落城に追い込まれる父、命を絶つ選択をした妻と、忠興は厳しい立場にありながら、終始家康の味方として上杉討伐から関ケ原の合戦まで、東軍の最前線で戦い抜きます。

その功績をたたえられ、忠興は加増され豊前中津(大分県)の大名となります。さらに、その子忠利の代には熊本藩に加増転封され、細川家は幕末まで熊本藩を統治することになるのです。

細川家の末裔には、総理大臣や熊本県知事を務めた細川護熙さんがいます。

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「三成との友情に殉じた」大谷吉継

西軍を束ねた石田三成が、一番最初に徳川家康打倒を打ち明けた大名が大谷吉継だとされています。三成が佐和山彦根)、吉継が敦賀という「領地を接する間柄だから」というだけではありません。

吉継と三成、真田親子の関係

吉継は、信長の重臣だった頃の秀吉に近習として仕え始め、秀吉が天下統一を果たしてからは、奉行衆として豊臣政権を支える役目を担ってきました。つまり、三成の同僚だったのです。

敦賀の支配を任される実力者でしたが、病気に冒されてしまい、次第に政権の中枢から離れていきます。健康であれば、おそらく三成や浅野長政らとともに、五奉行に列していただろうと思います。

三成とは深い友情で結ばれていたとされています。有名な逸話ですが、秀吉が開いた茶会で、病身の吉継が口をつけた茶碗を誰もが嫌がりましたが、三成は平然と茶を飲み干したそうです。

また、吉継の娘は真田信繁(幸村)に嫁いでいます。信繁は大坂城に出仕していたとされており、吉継はもちろん、三成とも懇意であった可能性があります。

壮絶な関ケ原での戦いぶり

徳川家康が上杉討伐軍を起こしたとき、吉継も従軍するつもりでした。そこに三成がやって来て、自身の決起に同意するよう求めてきます。家康に通報される可能性もありましたが、三成は吉継を信じていたのです。

吉継は「無謀だ」として三成を諫めましたが、決意の固さを知り、最後は共に戦う決断をします。吉継は、丹羽長重ら北陸方面の諸将を調略しながら、家康に味方した前田利長と一戦交えたのです。

さらに関ケ原には早くから陣を張り、三成ら主力部隊が布陣するのを待ち受けます。吉継の陣の南側にある松尾山には、寝返りの噂が絶えない小早川秀秋の軍勢が布陣したのです。

吉継の軍勢は東軍との激しい戦いを繰り広げますが、寝返った小早川軍らが襲い掛かってきたため、壊滅状態になりました。吉継は、三成の友情に殉じ、戦場で自らの命を絶ったのでした。

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「家康の信頼を勝ち得た大名」藤堂高虎

東軍(家康方)の主力部隊の一つだった藤堂高虎は、主君を変えながら出世を続け、家名を残した「世渡り上手」と言われます。マイナスイメージを持たれがちですが、実際はどんな武将だったのでしょうか。

高虎は近江(滋賀県)の出身で、はじめは浅井長政の家臣でした。浅井家滅亡後は主君を何人か変えましたが、豊臣秀吉の弟・羽柴秀長の家臣になってからは、秀長の元で秀吉の天下取りに尽力しました。

高虎が、福島正則加藤清正と違うのは、同じ豊臣家恩顧の大名とはいえ、仕えていた主君はあくまでも秀長だったことです。秀長の死去後は、一時高野山に出家するなど豊臣家と距離を置いた時期もありました。

その高虎が、次の主君として仕えたのが徳川家康だったのです。関ケ原の合戦の頃は、豊臣家恩顧の意識よりも「家康の天下取りに力を尽くす」という意識の方が強かったのではないでしょうか。

家康は高虎を信頼し続け、藤堂家を譜代大名と同等に扱ってきました。それは、藤堂家が津藩(三重県)という要衝の地を与えられ続けたことにも表れています。世渡り上手だけでは、これほどの信頼は勝ち得ません。

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キリシタンが選んだ道」小西行長

西軍の主力武将の一人・小西行長は、堺の商人の子に生まれ、豊臣秀吉に仕えてからは武将としてだけでなく、実務者としても重用されました。キリスト教に帰依したキリシタン大名でもあります。

行長には加藤清正というライバルがいました。二人は肥後(熊本)を北と南に分けて統治しており、朝鮮出兵でも先陣争いをしたほどです。清正と同等の実力者だからこそ、秀吉も競わせたのではないでしょうか。

行長は、徳川家康に極端な敵対感情を持っていたわけではありません。しかし、家康よりも石田三成との関係が深く、家康に味方した清正への対抗心もあって、西軍の中心的存在になっていったのです。

西軍惨敗後、逃亡していた行長も捕らえられます。キリシタンだった行長はキリスト教の教えに基づき、自害という選択をしません。その結果、首謀者の一人として三成らとともに処刑される運命となりました。

徳川幕府キリシタン弾圧もあって、行長は影の薄い存在になってしまいますが、ヨーロッパでは行長を主人公にした音楽劇が作られるなど、キリスト教の庇護者として高く評価されたそうです。

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関ケ原の合戦当日にキーマンとなった人物の紹介

歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳はこちら

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関ケ原の合戦はなぜ起きたのか?

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