歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

思い入れ歴史・人物伝~信長編番外コラム2本

note版「思い入れ歴史・人物伝~信長編」の番外コラム2本を掲載いたします。

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 若き信長を演じた名俳優

歴史愛好家マイケルオズです。史実を追いながら「歴史・人物伝~信長編」を書いてきましたが、本日はちょっと趣向を変えて、信長を主人公にした映画「風雲児織田信長」をご紹介しましょう。

この映画は1959(昭和34)年に公開されました。萬屋錦之介さんが主役の織田信長を演じ、「大うつけ」と言われた青年時代から桶狭間の合戦で勝利するまでを描いています。

映画の冒頭は、昨日の「歴史・人物伝~信長編」で書かせていただいたとおり、父・信秀の葬儀で信長が抹香を位牌に投げつける場面です。悲しみと怒りが混じった複雑な表情を錦之介さんが見事に演じています。

私は20代の時に初めてこの映画を見ましたが、錦之介さんの迫真の演技に圧倒されっ放しでした。濃姫役の香川京子さんをはじめ、脇を固める人たちも名俳優ばかりで、東映時代劇の全盛期をうかがわせました。

とくに印象に残っている名ゼリフが「尾張の大うつけで終わるか、天下を取るかだ!」です。当時の信長が天下取りまで見据えていたかは別として、強烈なインパクトを与えてくれました。

錦之介「信長」の言う「天下取り」への関門の一つが、舅(しゅうと)の斎藤道三との対面です。次回は信長編に戻って、信長と道三の対面について書きたいと思います。

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渡哲也さんが演じた信長

NHK大河ドラマ麒麟がくる」が、8月30日から放送再開となります。主人公の明智光秀が、織田信長の家臣となって歴史の表舞台に登場してくるので、史実がどう描かれるのか楽しみです。

ところで、戦国時代を舞台にした大河ドラマでは、必ずといっていいほど登場する織田信長。過去、多くの俳優が演じてきましたが、それぞれドラマの特徴を生かしたキャスティングがされていました。

そのなかでも、「秀吉」に登場した渡哲也さんの織田信長は、圧倒的な存在感と威厳がありました。秀吉役の竹中直人さん、明智光秀役の村上弘明さんら家臣たちが、恐れおののきながら仕えていたのを覚えています。

渡さんの信長には、「人としての優しさや弱さも持ち合わせていた」との演出が施されていたと思います。それを家臣の前では決して見せず、「威厳」というベールで覆い隠していたのです。

本能寺の変での最期のセリフ、「神が・・・死ぬか」は、印象に強く残っています。そこには「なぜ自分がこの場で死ななければならないのか」という理不尽さと無念さが、短い言葉に託されていたのだと私は考えます。

最後に、渡哲也さんのご冥福をお祈りし、このコラムを閉じます。

 

歴史・人物伝~信長編⑥~⑩「信長公記に見る若き織田信長」

織田信長家督を相続し、尾張一国を統一するまでの青年期について、エピソードや取り巻く人々を交えながら紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~信長編の⑥~⑩をブログで一括掲載します。

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 「大うつけ」の器量を見抜いた道三

帰蝶濃姫)の父・斎藤道三が、婿の信長に「対面したい」と求めてきたのに応じ、両者は1553年に美濃と尾張の境にある正徳寺で初めて顔を合わせることになりました。

「大うつけ」の姿のままで・・・

父の信秀が亡くなり、若き後継者となった信長でしたが、信秀の葬儀での行状が道三の耳にも入っていたのでしょう。道三は、信長が本当の「大うつけ」かどうか、自分の目で見極めるつもりだったのです。

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信長の姿を見ておきたいと思った道三は、先回りして町はずれの小屋に隠れて、やって来る信長の行列を確かめました。「信長公記」にも書かれているエピソードですが、道三が本当に覗き見したのかは不明です。

その時の信長は「大うつけ」と呼ばれるままのいでたちでしたが、信長にすれば「これが俺の普段着だ」と言わんばかりでしょう。その姿を初めて見て唖然とする道三が目に浮かんできます。

しかし、道三をもっと驚かせたのが、「三間半(約6・4メートル)の槍を持った槍衆500、鉄砲隊500」というお供たちでした。信長がただ者ではないと、この時点で道三は見抜いたのかもしれません。

対面の座に現れた信長

正徳寺の対面の座には、道三の家臣たちが正装をしてずらりと居並んでいました。道三は「大うつけ」の姿でやって来る信長に恥をかかせ、笑ってやろうと目論んでいたのです。

ところが信長は、先ほどの姿とは打って変わり、居住まいを正して現れました。さらに家臣たちには一瞥(いちべつ)もくれず、後から現れた道三に対しても自分から挨拶をしなかったほどです。

道三と信長がどんな会話を交わしたかは分かりませんが、対面は無事に終了し、道三は居城へと引き上げていきました。その途中、家臣が「信長は大うつけ(阿呆)でしたね」と言ったのに対し、道三はこう答えました。

「だから無念だ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになるだろう」※地図と読む現代語訳信長公記

信長の器量が、嫡男である斎藤義龍ら自分の子供とは比較にならないと、道三は認めざるを得なかったのです。同時に、同盟関係が解消された時、美濃が信長の属国になると予言したのかもしれません。

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強大な今川軍の砦を打ち破る

織田家のある尾張は、常に東から今川義元の侵略にさらされていました。義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていた戦国屈指の大大名で、尾張に隣接する三河を属国化して勢力を伸ばしてきています。

武勇を誇った織田信秀が死んだこともあり、1554年に義元は三河尾張の国境の攻略にかかり、前線基地の砦(村木城)を築きます。当時信長は、織田一族内の抗争もあって、簡単に兵を出せない状況にありました。

そこで信長は「自分が出陣している間、本拠地(那古野)を守る援軍を派遣してほしい」と斎藤道三に依頼します。一つ間違えば、那古野を乗っ取られる危険もありましたが、信長は道三を信頼していたのでしょう。

信長軍は村木城を猛攻で落とし、今川軍の勢力を押し戻しました。信長が、信秀に匹敵する猛将だと分かり、義元は6年後に大規模な軍事作戦を決行するのです。これが有名な桶狭間の合戦となります。

援軍の役目を終えた斎藤軍も美濃に引き上げ、道三に信長の戦いぶりが報告されます。道三は「隣国には居てほしくない人物だ」と、改めて信長の力量に脅威を感じたようでした。※信長公記より

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息子に打ち倒された斎藤道三

美濃の事実上の支配者だった斎藤道三は、織田信長を評価していた半面、嫡男の義龍(高政)への評価は低かったようです。むしろ、義龍の弟たちをかわいがっていたとされます。

弟たちに後継者の座を脅かされると思った義龍は、病気を理由に呼び寄せて暗殺したのです。この事件をきっかけに、道三と義龍が美濃の国を二分する争い(長良川の戦い)が起きてしまいます。

戦いは、現当主である義龍の方に分があり、激戦の末に道三は敗れてしまい、討ち死にするのです。信長は、道三の援軍に出向きましたが、敗死の報を聞いて尾張に引き返しました。

信長公記」は、道三が主君である土岐頼芸を追放した仕打ちを引き合いに、当時の落首(世相を風刺した狂歌)を用いて「自身の自滅をもたらす」と、敗死が自業自得だったかのように書き記しています。

さらに、義龍が父親の道三を倒したことについても、次のように断罪しています。

「今の義龍は親不孝の重罪で、それを恥辱と思わねばならないのである」※地図と読む現代語訳信長公記

これらは、作者の太田牛一自身が「主君と家臣のあるべき姿」「親と子は長幼の序でなくてはならない」との考え方を表したのだと思います。

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兄に反旗を翻した弟・信勝

美濃の斎藤家で起きた斎藤義龍による弟たちの暗殺や父・道三との合戦を昨日ご紹介しましたが、こうした肉親同士の抗争は織田家も例外ではありません。織田信長にとっても、避けて通れない道だったのです。

信長には、同母弟の信勝(信行)がいました。父・信秀の葬儀でご紹介したように、「大うつけ」の振る舞いそのままの信長に対し、居住まいを正して葬儀に臨んだ信勝に、織田家の後継者を期待する家臣も多くいました。

信勝自身も、自分が織田家を継ぐべきだと思うようになり、やがて信長に反旗を翻します。信勝方には、柴田勝家林秀貞といった後に信長の重臣となる人物も含まれており、織田家を二分する争いになってしまいました。

二人の母である土田御前のとりなしもあり、一度は信勝も許されたのですが、他の織田一族に担がれ、再度信勝は決起します。しかし、信勝を見切っていた勝家によって、企てが信長に知らされたのです。

信長は一計を案じ、病気と偽って信勝をおびき寄せて謀殺し、お家騒動の芽を自ら摘み取りました。この時、見舞いを勧めたのは土田御前と勝家だったとされ、後に勝家が重く用いられるきっかけになったのです。

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暗殺団を直接詰問した信長

織田信長の上洛(京都入り)と言うと、足利義昭を奉じた大軍勢での上洛を思い浮かべるでしょうが、実は1559年に上洛していました。ほぼ尾張一国を統一した頃にあたります。

時の将軍・足利義輝への謁見を果たすとともに、京都、奈良、堺を見物したそうです。おそらく、信長自身が見聞を広げようとの目的で、各地を巡ったのだと思われます。

信長公記」によると、信長を狙って美濃から暗殺団が送り込まれたといいます。しかし、暗殺計画は未然に漏れてしまい、信長は直接暗殺団と対面したのです。信長は彼らに向かって、こう言い放ちました。

「未熟者の分際で信長を付け狙うとは、かまきりが鎌を振り上げて馬車に立ち向かうようなものだ。できるものか。それとも、ここでやってみるか」
※地図と読む現代語訳信長公記

度量が大きいと言えば、そうかもしれませんが、暗殺団に会うこと自体は不用心です。そこが、行動派の信長らしさとも言えます。結局、事なきを得て無事に尾張に帰国できたのです。

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歴史・人物伝~信長編では、若き日の織田信長について「信長公記」に沿って書いてきました。今回でひとまず終了しますが、いずれはこの続き、すなわち信長が世に出るきっかけとなった「桶狭間の合戦」について書いてみたいと思っています。

歴史・人物伝~信長編①~⑤「信長公記に見る若き織田信長」

織田信長家督を相続し、尾張一国を統一するまでの青年期について、エピソードや取り巻く人々を交えながら紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~信長編の①~⑤をブログで一括掲載します。

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信長の一代記を書いた男

「思い入れ歴史・人物伝」の本編スタートは、戦国時代を代表する英傑・織田信長から取り上げます。が、信長自身をストレートに紹介するのではなく、信長を取り巻く人たちの視点で書いてみます。

信長公記」を書いた太田牛一とは

織田信長の一代記である「信長公記」は、織田信長の側近だった太田牛一という人が、江戸時代に入ってからまとめた書物です。事象や合戦ごと丹念にまとめてあり、信長を知る上では欠かせない史料となっています。

信長の側近なので、信長を賛辞する記述が多くなっていますが、豊臣秀吉の「太閤記」とは違い、創作はほとんどないと思われます。また、合戦の描写が正確で、史料的価値も極めて高いといいます。

太田牛一は、信長より5歳ほど年上で、信長が家督を相続した頃から仕えていました。戦場での活躍よりも、官吏としての能力に優れていたようです。信長横死後も、秀吉、家康の天下取りを見続けてきました。

現代に例えると、太田は「大会社の秘書兼ジャーナリスト」という感じでしょうか。丹念に記録を残し、分からないところは人に聞く、すなわち取材をして書き上げています。

あの名場面も「信長公記」に書かれていた!

若き日の織田信長が登場するドラマや映画で、必ず描かれる名場面があります。信長の名を世に知らしめた「桶狭間の合戦」に向かう前、能の「敦盛」を舞って自らを鼓舞するシーンです。

あのシーンはドラマの創作、もしくは軍記物からの引用だと思っていました。ところが、太田が著した「信長公記」の桶狭間の合戦の中に、こんな描写があるのです。

この時、信長は「敦盛」を舞った。「人間五十年、(中略)滅せぬもののあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い(後略)
※地図と読む現代語訳「信長公記」より

太田の創作かもしれませんが、私は事実だと思っています。出陣前に信長が本当に舞ったからこそ、太田はあえて記録に残したのです。信長の死生観を今に伝える見事な描写ですよね。

「思い入れ歴史・人物伝~信長編」の執筆にあたり、以後も「信長公記」を参考にしたいと考えています。

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青年期の「大うつけ」信長

若い頃の織田信長は、人々から「大うつけ」と言われていました。うつけ者というと、暗愚というイメージを持ってしまいがちですが、信長の場合は「変わり者」という意味合いにとらえた方がいいでしょう。

信長公記」でも、青年期の信長をこう書いています。

「町中を歩きながら、人目もはばからず、栗や柿はいうまでもなく瓜までかじり食い、町中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶら下がって歩いていた」※地図で読む現代語訳信長公記より

ドラマや映画での青年・信長の姿は、誇張表現されたものかと思っていましたが、衣装などは別にして、立ち振る舞いは「信長公記」を忠実に再現しています。作者の太田牛一も「見苦しい」としているほどです。

ただ、「信長公記」によると、弓、鉄砲、槍の稽古や鷹狩りという武士のたしなみは、しっかりと修練していました。とくに「鉄砲の稽古」を行っていたという記述は注目されます。

当時は鉄砲が日本に入ってきて、数年しか経っていません。信長がいち早く鉄砲に興味を示し、自ら扱い方を学んでいるというのは、彼の先見の明を知るエピソードとも言えますね。

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野心家の父・信秀の打った手とは

織田信長の父の織田信秀は、勇猛果敢で野心的な武将として知られていました。信秀は、織田本家の出身ではありませんでしたが、その実力をもって次第に勢力を拡大していきました。

ただ、信秀の周りは敵だらけでした。東には「海道一の弓取り」と言われた大大名・今川義元がおり、北の美濃は斎藤道三が事実上の権力者です。足元の尾張国内では他の織田一族との対立抗争があったのです。

そこで信秀は、斎藤道三と同盟関係になることを画策します。都合が良いことに、信秀には嫡男の信長がおり、道三には帰蝶濃姫)という娘がいました。そこで信長と帰蝶の政略結婚が成立したのです。

道三も、信秀の武略に手を焼いていたので、信秀との同盟関係はまさに「渡りに船」でした。おそらく帰蝶には、尾張の情勢を逐一報告するよう指示していたと思われます。

ですが、信長は「大うつけ」と噂されていた男です。嫁入りする帰蝶の気持ちは、複雑だったに違いありません。

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妻・帰蝶の謎に包まれた生涯

織田信長の父・織田信秀は、敵だらけの四面楚歌を打開するため、美濃の斎藤道三と同盟を結ぶため、信長の嫁に道三の娘・帰蝶濃姫)を迎えることになりました。

信長の正室(妻)となった帰蝶ですが、その生涯だけでなく、正確な名前すら伝わっていません。「信長公記」にも「道三の娘」としか記されず、美濃の姫だから「濃姫」と呼ばれていたようです。

信長には、嫡男の信忠や後に後継者争いをする信雄、信孝がいますが、いずれも帰蝶が生んだ子ではありません。おそらく、二人の間には子がいなかったか、いたとしても女子だったのではないかと思われます。

帰蝶の生涯は謎に包まれているため、ドラマなどでは脚色しやすく、中には「本能寺の変で信長と最後まで戦った」という演出もありました。道三の娘という血筋からも「戦える女性」を描きやすかったのでしょう。

私は、信長が美濃の攻略を始めた頃(1560~66年)に離縁したか、死別したと考えます。帰蝶が「濃姫」と呼ばれたのも、あくまで美濃との縁結び(同盟)のためで、敵対すれば解消されても仕方ないと思うからです。

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信秀の死と葬儀での出来事

道三の娘・帰蝶濃姫)を嫁に迎えた織田信長でしたが、間もなく悲しい出来事が起こります。父の信秀が病死したのです。40代前半での死は、若すぎるだけでなく、織田家の行く末にも影響を及ぼしました。

信長には同母の弟・信勝がいました。信長が「大うつけ」と陰口を叩かれていたのですから、家臣の中には「後継者には信勝がふさわしい」と思う者も少なからず存在していたと思われます。

それが顕在化するのが、万松寺で執り行われた信秀の葬儀での出来事でした。「信長公記」には、次のように記されています。

「その時の信長の出で立ちは、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅まげに巻き立て、袴もはかない。仏前に出て、抹香をかっとつかんで仏前に投げかけて帰った」※地図と読む現代語訳信長公記

今で言うならば、「ど派手な普段着のまま葬儀に現れ、焼香用の抹香を位牌に投げつけたて立ち去った」ことになります。信長は嫡男なので、当然喪主を務めているはずなので、驚くべき行動です(苦笑)

一方の信勝は、居住まいを正し、礼にかなった作法だったそうです。誰の目にも、「乱暴で礼儀知らずの兄」と「律儀で礼儀正しい弟」と写ったでしょうし、信勝に後継者を期待する声が出てもおかしくありません。

ただ、「信長公記」には、こんな記載もあります。

「筑紫から来た旅僧一人だけが、『あの方こそ国持ち大名になるお人だ』と言ったとか」※地図と読む現代語訳信長公記

これは私の推測ですが、作者の太田牛一が旅僧の言葉を借りて、信長を尊敬する自らの思いを込めたのではないでしょうか。その時の信長の振る舞いを見て、ここまで見通せた人がいたとは、とても思えないのです(笑)

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★歴史・人物伝~信長編⑥~⑩はこちら

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歴史・人物伝~序章「なぜ歴史好きになったのか。自己紹介も兼ねて」

note版「思い入れ歴史・人物伝」の序章をブログで一括掲載します。

教科書では学べないこと

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「思い入れ歴史・人物伝」のスタートは、誰からにすればよいのか? 昨日から迷っているのですが、その前に「どうして歴史上の人物に興味を持つようになったのか」を書きたいと思います。

私は中学、高校時代と社会科(地理・歴史)だけが得意で、常に好成績でした。しかし、それは「受験勉強の知識」に過ぎず、歴史を学ぶには「事象や人物を掘り下げなければならない」ことが分かったのです。

例えば、大化の改新は「645年に中大兄皇子中臣鎌足が、蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼし、新たな政治を始めた」と教わりました。しかし、なぜこのような事件(乙巳の変)が起きたのかは、深く学んでいません。

中大兄皇子は、後に天智天皇として即位しますが、事件から即位まで20年以上かかっているのです。その理由を掘り下げるには、中大兄皇子の人物像や天皇家を取り巻く当時の政治的背景などを知る必要があります。

歴史は人間が作るものなので、そこには人間らしいドラマが必ずあります。それを映像化したのが、ドラマやドキュメンタリー番組でした。次は、私の歴史好きを決定づけた「大河ドラマ」について書きます。

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大河ドラマの影響は大きい?

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NHK大河ドラマは、私の歴史好きを後押ししてくれます。戦国時代の明智光秀を主人公にした2020年の大河ドラマ麒麟がくる」が放送再開されて、本当によかったと思っています。

本腰を入れて見た最初の大河ドラマは、1988年の「武田信玄」でした。諏訪地方に住む私にとって、信玄はなじみ深い戦国武将で、後継者の勝頼を生んだ母親は「諏訪御料人」と呼ばれた女性だったからです。

ただ、どちらかというと信玄よりも、川中島の戦いで激闘を繰り広げた上杉謙信の方が私は好きです。ドラマでは柴田恭兵さんが演じ、「正義の何たるかを示す!」というセリフがお気に入りでした(笑)

大河ドラマは、舞台となった地域の観光誘客や活性化にも大きな効果を生んでいます。また、その地域を訪れることで、ドラマの主人公や人物たちの足跡に触れ、さらに歴史を深掘りする機会を与えてくれるのです。

私の趣味というか、道楽でもあるひとり旅では、「歴史の舞台を歩く」のも大きな目的の一つになっています。次は、歴史探訪の面白さについて書いてみたいと思います。

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歴史探訪も旅の目的に

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私が、ひとり旅を始めたのは30歳になってからです。旅先は日本国内だけですが、これまでに全47都道府県を旅して歩きました。通算のひとり旅も100回を超えています。

ひとり旅の目的の一つに「歴史探訪」があります。歴史上で起きた様々な出来事の舞台となった土地を歩いたり、現地の博物館・資料館を見学したりして、その当時に思いを巡らせているのです。

日本の歴史で最も有名な戦い「関ケ原の合戦」を探訪する旅では、東軍の徳川家康、西軍の石田三成ら武将たちが陣構えをした場所に立ち、合戦の状況をあれこれと想像してみました。

現地を訪れてみると、三成の陣は関ケ原が全貌できる好位置に付けていたことが分かります。他の西軍武将の配置を考えても、三成が戦略的な布陣を行ったことが一目瞭然でした。これも現地で再確認できたのです。

その土地を訪れて初めて分かったこと、改めて理解できたことなど、歴史探訪の面白さにどっぷり浸るのも旅の醍醐味です。新型コロナウイルスが早く終息し、再び旅行を楽しめるようにと願っています。

自己紹介を兼ねた序章はここまでといたします。

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タイトルの変更と、noteでの執筆開始

当ブログのタイトルを変更いたしました。これまでは「歴史・人物書きたい放題」でしたが、新しいタイトルは「思い入れ歴史・人物伝」です。

 

タイトル変更の深い意味はありません。実は、当ブログと並行してnoteでも歴史関係の連載を始めようと思い、8月9日から執筆をスタートさせました。noteは、私にとって初めての媒体となるため、書きやすいテーマとして歴史を選んだのです。

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これに伴って、当ブログも少しずつマイナーチェンジができればと思っています。具体的な構想には至っていませんが、当面はnoteへの執筆がメインとなるため、やや更新頻度が減るかもしれません(苦笑)

 

余談ですが、大河ドラマ麒麟がくる」が8月30日から再開されるようです。だいぶ間が空いたので、前のストーリーを忘れかけていますが、9日から3回の総集編を見ておさらいしておこうと思います。

 

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「鍋島閑叟①」幕末・維新~西洋通の佐賀藩主が最強の軍事力を生む

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佐賀藩カノン砲佐賀市

幕末の佐賀藩主としてその名が知られる鍋島閑叟(直正)は、薩摩藩島津斉彬と並ぶ西洋通の藩主でした。ペリー来航以来、尊王攘夷を掲げる人々が増える中で、積極的に西洋の軍事力や医学を取り入れたのです。

ただ、政治的なスタンスは終始曖昧だったと言われています。幕末最強と言われる軍事力を持つ佐賀藩は、倒幕を意図する長州や薩摩藩にとって味方にしたいところですが、閑叟は積極的に討幕派諸藩に加わることはありませんでした。

その軍事力が力を発揮したのが、旧幕臣らの彰義隊が立てこもった上野戦争です。佐賀藩しか所有していなかったアームストロング砲が炸裂し、彰義隊を壊滅させました。さらに、函館戦争などでも圧倒的な軍事力を見せつけたのです。

閑叟は典型的な専制君主と言われ、藩士が他藩の人材と交流することを嫌がりました。その結果、幕末の動乱に巻き込まれることなく人材の温存ができ、明治時代になってから江藤新平大隈重信副島種臣大木喬任ら多くの偉人を輩出したのです。

「本多政重①」江戸時代~加賀藩に根付いた家老・本多家

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藩老本多蔵品館(金沢市、現在は加賀本多博物館)

前田利家を藩祖とする100万石の加賀藩で、長く家老職を務めた本多家があります。その初代が本多政重で、父親は徳川家康の懐刀と言われた本多正信です。政重の前半生は、主君を次々に変えるなど波乱に満ちていました。

関ケ原の合戦後、政重は前田家に仕官しました。しかし、すぐに前田家を離れてしまいます。その政重に目をつけたのが、上杉家の重臣直江兼続でした。兼続は自分の娘の婿養子に政重を迎え入れ、直江家を継がせようとしたのです。

当時、外様大名徳川将軍家の顔色を常にうかがわなければならず、少しでも徳川家や徳川譜代家臣との関係を結びたかったのです。兼続の娘が亡くなり、やがて養子関係を解消した政重は、将軍家の意向もあって再び前田家へ戻ってきました。

前田家は、政重に5万石を与え筆頭家老として遇しました。将軍家との関係を重視したことは言うまでもありませんが、政重自身の力量も買われたのだと思います。以後、本田家は筆頭家老として幕末まで前田家を支えていくことになるのです。